「いらっしゃいませ〜…え!」
店内を明るく響き渡るはずの娘の声が、途中で勢いが止む。
リューンの一画に存在する宿の一つ――水妖の白泡亭。その店内に鳴ったのはカランカランと客が入った事を知らせる鈴の音だけだ。
次に、入って来たのは一人の若い男。彼を知らぬ者から見れば年端も行かない少年にも見えるかもしれない。どこかぼんやりとした表情を浮かべ、明るい金色の髪の左サイドには羽根を模した髪飾りをつけていた。
こう見えて彼はリューン内ではそれなりに有名人である。名はアーク・グランギアス、精霊術師を生業とする冒険者だ。
アークは娘と目が合うとぽわんと微笑みかけた。
娘はまさかの有名人の来客に驚きつつも、呼ばれている予感がしたのかいつもの軽い足取りで向かう。
「アークさん、いらっしゃいませ! お一人様ですか?」
「うん、あと人を探してるんだけど…」
言葉を繋ぐようにアークの肩にいた奇妙な生き物がぎゃうと変な鳴き声を上げた。
端から見れば犬みたいにも見えるそれは、娘が見ても何の生き物かは分からなかった。が、屈託がなく愛嬌のあるその生き物に言い知れない愛くるしさを感じていた。
「人ですか? こちらの宿に来ている方なのかしら」
「うん、サンって人なんだけど‥知ってる?」
「ああ! サン君ですね、彼ならあっちのテーブルにいますよ」
サンという名の人物は白泡の水妖亭に所属している冒険者の一人だ。娘も当然顔見知りだし話もよくする間柄である。
「ほら、あそこです。赤い髪の子」
働き者の細い指先で店の中央辺りにあるテーブルを娘は指差した。
アークは娘の指の先を辿って、言われたテーブルを目で追う。そこには複数人の男女が座っていた。彼が探している人物として当て嵌まる者は背中を向けているが赤い髪はその者一人しかおらず、迷う必要もない位に分かりやすかった。
「ありがとう、…あと揚げじゃが頼んでもいい?」
「ありがとうございます、あちらの席にお持ちすればいいですか?」
「うん、お願いね」
注文を受けた娘はカウンターへと足を運ぶ。
アークはなんとなく娘の背中を少しの間、目で追っていく。気が済んだのか、間もなくして彼女に教わったテーブルへと向かう事にした。
店内にいる客の何人かはアークの存在に気付き、ざわついている。気付いた中には、アークの向かう先であるサン達も当然気付いていた。
「……何でズィークヴァッフェの一人が、こんな所に……」
珍しくキャスバルドが困惑した声をあげていた。端正な顔も僅かに歪み、頭を抱えんばかりである。
「…確か、有名な冒険者の一人と言っていたか」
一方、プラードは相変わらず静かに呟いた。
サンは自分達とまるで関係のない有名人がこちらにやって来る事に首を傾げるばかりである。
「オレら、なんかしたっすかね…」
「誰か知り合いって事はないの?」
リコが問い掛けるものの、返ってくる言葉はない。皆がアークとの関わりを考えているようにも見えた。
「やぁ、こんにちは」
あーだこーだとまとまりのない会話をしている間にも、アークがすぐそばまでやってきていた。
「‥‥」
敵意を全く感じさせず、屈託のない笑顔に全員がすっかり毒気を抜かれていた。
「ちょっとだけお話いいかな? サン君」
「…………え」
振り返ったサンは目の前のアークを見上げる。
「オレ、ですか?」
アークという人物が実力高い冒険者である事はサンも知っている。だがこうして話すのは初めてで人となりもよく分からないし、不安もある。
だが、普通実力者であればあるほど圧迫感を感じるものだが、背後にいるというのにアークからの圧迫感はまるで感じなかった。
「うん、…あ、でも皆席を外さなくても大丈夫。他の人に聞かれたくない話でもないしね」
「はいっ、なら私の席どーぞ。どうせ座ってないし」
リコが自分の席を指差した。
彼女は妖精である。人間の手の平サイズな為、人間の椅子は大きすぎるのだ。それ故に席の前のテーブルにちょこんと座り込んでいた。
「あ、妖精さんだ。ありがとう、じゃあ今だけ席借りるね」
「どうぞ〜、私はここにいてもいいかしら?」
「勿論」
妖精であるリコはアークが来た事によって、ご機嫌だった。リコからはアークにどれだけの精霊がついているのかが分かっているからだ。その中には一際大きな精霊までいる。彼等からは皆、明るい感情しか感じられない。それだけでリコは安心出来るのだ。
アークは周りに会釈をしながらリコの席を借りて腰掛けた。
見知らぬ人物にクロリスが僅かに怯えた様子でアークを一瞥した。そんな彼女と目が合うとアークはただ微笑んで見せただけだった。
「挨拶が遅れちゃってごめんね、オレはアーク・グランギアス。精霊使いだよ」
サン達もそれぞれ挨拶を終えた辺りで、アークが頼んでいた揚げじゃがが運ばれてきた。
揚げじゃがを一つ、口に入れた後アークがラグナスをじっと見やった。
真っ直ぐな眼差しにキャスバルドは口には出さず見透かされているような薄ら寒さを感じたのだが、ラグナスは特に似たものを感じる事もなかった。
「あのぅ、もしかしてラグナスさんってリューンの外れの教会にいる?」
「ええ、おりますよ」
こくりとラグナスが頷く。
「じゃあサタナエルは知ってる…かな?」
「はい、彼の御祖父様と御祖母様が天へ召された際にお手伝いをさせていただきました」
「名前を聞いた時にはもしかして…って思ったんだけど、やっぱりそうだったんだね。とっても丁寧に看取って貰ったって聞いてたから、オレからも一度ありがとうって言いたくて」
サタナエルの祖父と祖母にはアークも幼少の頃、とても世話になっていた。自身の両親が長期で外にいる事が多かった為、家が隣だったサタナエルの家で暮らす事が多かったのである。
我が子のように接してくれた二人に、アークは感謝しきれない気持ちを抱いていた。ラグナスの名は祖父母の一件をサタナエルから聞いていたのだった。
「いえそんな、私は出来る限りの事をさせて頂いただけで…」
ラグナスにとってもサタナエルの祖父・祖母は記憶に残る人物だった。看取る際には顔見知りだった訳だが、その時も名指しで呼ばれた事も記憶に残った理由の一つなのだろう。
彼の祖父は頑固者と知ってはいたものの何故自分を名指ししたのか、当人に聞いてもはぐらかされるばかりだった。
連れ合いである祖母曰く、「あなただから最期を共にしたいんでしょうね」とこっそりと教えられた時は、家族ではないが認められたのかもしれない。そんな事を思ったものだった。
「これはオレの自己満足だし、そんなに重く取らないで貰えると嬉しいな」
「ええ、けれどまさか…あのお二方の件で再びお話が出来るとは思っておりませんでした」
今になってからラグナスはふと思い出していた。二人が揃って気にかけていた、もう一人の孫みたいな存在がいると言っていた事を。その者の名が『アーク』と言う名前であり、心配している。訳あって一人、旅をする事になったのだが気掛かりで仕方ないのだと。
それが今、目の前に立つ彼の事を言っていたのだろうとようやくラグナスの中で一致した。
「オレもだよ、まさか向かった先でラグナスさんと会えるなんて思わなかった」
サタナエルからはラグナスと会った、と聞いていた時は謎の対抗心が沸き上がっていたが予期しない出会いに、そんな感情があった事すら拭い去られていた。
「……」
二人の会話に花が咲く中、キャスバルドだけが訝しげに伺っていた。アークと言う人物は彼のパーティの中でも未知数というイメージだったからだ。古竜の息吹亭の代表とも呼ばれる彼等は、英雄と呼ばれる事もあるかなりの実力者である。
人の姿をしているが古くを生きる古竜であるアポカリプス、血を吸うのではなく魔力を吸う王族血統の末裔であるアレクシエル。聖北の使徒であり魔族を狩るエクソシストとの噂もあるアステフィル。
キャスが最も注意しているのはこの三人だ。
リーダーであるサタナエルは魔法を一切使わない重戦士、メンバーの一人であるウリエルも魔法の類は専門ではないと聞いている。
肝心のアークはというと、まず熟達した精霊使いだと言うこと。複数の精霊を多く行使出来、自在に操れると聞く。次によく聞くのは『危なっかしい』という言葉だった。ぼんやりとしており放ってはおけないのだと。
(…くそ、読めねぇな)
表情を読もうと試みるが、いまいち読めずキャスバルドはすぐに諦める事にした。
その上、キャスバルドはアークにどうしても腑に落ちない点を感じていたのだ。そんな人物が何か用事を切り出す事もなく世間話をしているのか。
「あの…」
おずおずと口を挟んだのは、アークに用があると言われたサンだった。
「オレに用事みたいでしたけど…」
本人としては気にならずにはいられなかった。すぐに切り出して来ない分、キャスとはまた違う不安を抱いていた。
「オレ、アークさんに何かしてしまったんでしょうか…?」
「?  してないよ?」
緊張の篭った声で尋ねるサンに対して、アークはきょとんとしたまま不思議そうに返事を返した。
表情が変わらないまま、どうしてそんな事を言われたのか考えてから数秒後。
「…あぁ、ごめんね。不安にさせちゃったんだねぇ」
間延びした声でぽつりと呟いた。アークの肩にいる奇妙な生き物が一鳴きして、前足をパタパタと動かしている。
「ごめんってば、言葉が足りなかったねぇ」
その一鳴きの意味が通じているのか、更にアークが謝罪している。
同時にキャスバルドは彼の人となりに納得せざるを得なかった。今までの様子を見る限り、サンやラグナスとはまた違った意味で放置しておけないタイプと判断した。こういった人物は単独行動をさせてはいけない。
「ん〜とね、オレが君に会いに来たのは…君を責めに来たとかそういう理由じゃないのね」
「は、はい」
「これという話はないんだ、世間話? を君としたかったの」
「世間話…スか?」
「うん、世間話」
アークが嘘を言っているようにも見えなかった。ぼんやりとした様子からは読み切れなかったとも言うが。
取り留めのない話をしたかったとしても世間話をする相手なら彼が所属する宿にたくさんいるだろうにと頭の隅で思いながらもサンは一応納得する事にした。
「それでね、サンに質問」
「あ、はい」
したいのは世間話とは本人の口から聞いたものの、改めて『質問』と切り出されると少し緊張感が増した気がした。
「サンはどうして冒険者になったの?」
「どうして…」
「うん、オレ達が言うのも何だけど…嫌な職業でしょ。必要とされる割には扱いは悪いしね」
アークの言う事は最もだ。サンもそれについては頭の隅で考えた事がある。
「ああ、もちろん。深い事情があってそれを口にしたくないなら言わなくてもいいよ」
「いえ、そんな深い理由でもないんです。…オレ、スラム生まれのスラム育ちなんですけど」
今の今までサンは冒険者になった経緯を誰にも話した事がなかった。
聞かれた事はある。スラムの仲間にも、自身で誘ったキャスにも。
でも、サンは聞いてきた誰にもその本当の理由を話そうとはしなかった。当時はどこか恥ずかしさもあったから、そんな理由もあった。だから自分の胸だけに閉まっておく事にしたのだ。
「そうなんだ」
「はい、あ…でもスラム生まれである事が嫌な訳じゃないんです」
今とてその理由が叶った訳じゃないとサンは思っている。
皆も周りにいるが、今なら昔と比べても不思議と恥ずかしくは感じなかった。
「他以上に色んな人がいてスラム外には認められていない人達が多いですけど、だからこそ認めさせたいって思ってるんです。捨てたもんじゃないって」
一度口に出すとするすると次の言葉が外に出ていく。そして同時に何故あの時、口にするのが恥ずかしいと感じていたのだろうと疑問さえ浮かんでいた。
「オレが考えて、考えた結果行き着いたのがこれくらいだったんです。オレには飛び抜けた才能も学力もありませんからね」
そう冗談めかしたようにサンは苦笑した。
「冒険者になってそれこそ有名になった時、『スラムの人間もなかなかやるじゃないか』って少しでも思われたらいいなーって。馬鹿にされっぱなしが嫌っていうよりも、その偏見がなくなればいいってずっと思ってて」
きっかけはなんだったろうか。ふとサンは考える。とても狭い世界に生まれ、そこは偶然不信と敗北した者と闇に生きる者が住む世界だった。サンにとってはそんな世界が日常だから何もおかしい所なんて探した所で見つかる訳もなかった。
「偏見はスラムに対してだけ、じゃないのは分かってるつもりです」
サン自身、スラムで育った事を悔やんでいない。それどころか誇りにさえ思っている。だからこそ自分が最大の理由ではない事も分かっていた。
「まだまだ道のりは長いんですけどね、これが冒険者になろうと思った理由です」
「…そりゃ驚いたな」
思わず口にしたのはサンの言葉に最も意外性を感じていたキャスバルドだった。
「サンちゃんがそんな野望を胸に秘めてるなんて。最初に聞いた時はそれらしい事言ってたけど、あれは嘘って訳か」
キャスは聞いた当時の事を覚えていた。サンが冒険者になるべく、キャスを共に行かないかと誘った日だ。
視線を一同に集めながらもサンはゆっくりと首を横に振った。
「嘘って訳じゃ…ただ恥ずかしかったんですよ。柄にもなく大きな理由だったし」
「今は恥ずかしくないの?」
揚げじゃがをまた一つつまんで、アークが尋ねた。サンは小さく頷いて返事を返す。
「全然恥ずかしくないのかと聞かれれば違いますけど、初めの頃よりは薄れていったかなぁ‥と」
「うーん、その時にはあった不安が今はないからかもしれないねぇ」
「不安、ですか?」
「ちゃんとやれるのかっていう不安、意識してなくてもどこかにはあったんじゃないかなぁ」
アークの頭に乗っかっていた奇妙な小さい生物が短い手足を駆使して、彼の身体づたいに転がるようにして降りていく。それをアークは上手く抱き留めると、身体の内側―端から見れば球体そのものなので分かりにくいが腹部―を撫でてあやしている。
そんな一人と一匹をすぐ横にいるクロリスは不思議そうに眺めていた。
「考えたらキリないんで、あまり考えないようにはしてましたけど…正直な所不安ばっかりでした。だからキャスさんを誘ってみたんですから」
「あー、そういやそんな顔してたっけな」
サンが冒険者として動く際、まず最初に声を掛けたのはキャスバルドだった。彼がフリーである事もあり、また相談もしやすい相手だったからだ。不慣れな者が一人でやれる程甘くない事はサンもよく知っていたのもキャスに声を掛けた理由の一つだった。
「まぁ、すぐには入れないって一度断ってたんだがな」
「そうなの?!」
驚くメンバー達にサンは苦笑する。
「ははは、実はそうなんですよ」
普段なら暇であるのは間違っていないし、他でもないサンの頼みならキャスバルドも引き受ける気はあった。が、よりによってタイミング悪く家からの来客が重なりその用件をこなす為、引き受けられなかったのである。
勿論、詳しい内容は話す訳もなく、サンが知っているのはやんごとない用事だったという一点のみだ。
「『俺様の用事が終わるまでにまだ冒険者やってんなら入ってやる』って約束したんだよ」
「へー、それで今に至るのね。じゃあサンが冒険者を続けてなかったら皆と会えてないかもしれないんだ」
感心したようにリコが目を丸くさせた。
「そうかもしれないっすね」
アークはそんなサン達のやりとりを暖かい微笑みを浮かべながら聞いている。そして口には出さず胸中にだけ、彼等の憶測話に対し「会わなかっただろうね」と確信めいた言葉を呟いた。
そう、アークはサンが冒険者を諦めた未来を一つの事実として知っていた。見ようと思って見えたものではなかったが、アークが見えたヴィジョンはことこどくサン達が出会わないものだった。
「あ、じゃあアークさんはどうして冒険者になったのか、聞いてもいいっすか?」
だがサン達には言う必要はない。言った所で変な人物だと思われて要らぬ不信感を与えるだけだ。
「いいよ〜、オレはねぇ誘われたんだ。幼なじみのサタナエルにね」
「そうだったんですか、精霊を行使するのってすごく難しいって聞きましたけど…」
「オレの家が術師の一族でね、比較的小さい頃から馴染みやすかったのと修行に出てたおかげかなぁ。サタナエルに誘われたのはその修行から戻った時だったんだよ」
「偶然、ですか?」
アークはほわんと微笑んだ。
「うん。オレも力を貸せそうだったし、折角のサタナエルの頼みだったから断らなかったんだ」
雑談しに来たというアークの言葉通り、様々な話をした。ほとんどが他愛のない日常の話ばかりで、冒険者として為になりそうなものは数少ない内容ばかりだった。
こうして英雄候補の冒険者と話す機会は少ないとサン達も分かりきっているのに、とりとめのないやりとりをしたりそれらを見ているのが楽しく感じていた。
――カラン、カラン。
アークがサン達に馴染んできた丁度その頃、白泡の水妖亭のドアを叩いた者がいた。
見るからに大きな背丈。その背中には布を巻かれた巨大な大剣が背負われている。その大躯を覆っている全身の金属鎧、顔につけた特徴的な仮面。男を見た周囲が再びざわめいた。
周りのざわめきにサン達も気付く。ラグナスはその人物を見て誰なのかすぐに理解した。一通りの情報には詳しいサンやキャスバルドもこうして近くから見るのは初めてだが、顔と名前はすぐに一致していた。
「……あ」
客人であったアークだけが緊張感もなく、気の抜けた声を出す。
まさか先程の会話に名前を出した幼なじみ―サタナエルがこうしてやってくるとは思っていなかったのだ。
サタナエルは店主と目が合うと黙したまま一礼する。そして目立つアークを見つけるとまっすぐ向かってくるのだった。安堵したような疲れたようなぐちゃぐちゃに混ざった溜め息をつきながら。
「アーク、お前こんな所にいたのか」
サタナエルと目が合ったアークが困ったような複雑な表情を目に見える形で浮かべている。
「あれ〜、何でサタナエルがオレの事探してるの?」
「急に仕事が入ったんだ、それでな」
「あらら、そっか〜」
急な用事の会話とは思えない緩いやりとりの横で、ラグナス以外の5人は実力者の圧迫感というものを初めて感じた。
プラードが息を呑む。そしてすぐに理解した。手合わせすらしていないのに自分が気圧されている事を。
クロリスもプラードと近いものを感じ取っていた。相手は強い、そもそも武器が通るかすら怪しいものだと分かる。
自分達がどれほど様々な相手と剣を合わせてきたか、数知れない。だが眼前の重戦士は自分達を遥かに超える実戦経験を備えているのだ。相対する迄もなく、実力差を身に染みて感じさせられていた。
前に立つ戦士二人の僅かな、しかし確実な変化にキャスも重戦士の男を見やる。――あれが、英雄候補と噂に名高いパーティのリーダー、サタナエル・ディースレイドその人なのかと。
「そんな訳だからお前の用件が済み次第、古竜に戻って来いよ」
「うん、だいじょぶだいじょぶ〜。…あ、サタナエルも待ってて、すぐに終わるから」
周りの微妙な気配に気付いていないのか、アークの調子は変わらない。
一方のサタナエルは自分が来た事によって変わった空気に気付いていた。その為、すぐに帰ろうと考えていたのだがアークに阻止されてしまい、無理を通す理由もなく肩を竦めた。
友人の用件が終わるまで手持ち無沙汰になった所で、サタナエルはラグナスと目が合い一礼した。
ラグナスも同じように深々と一礼する。彼の話をしていた矢先にこうして顔を合わせる機会があるとは思ってもおらず、驚きを隠せなかったが。
「サンにもう一つ聞いてみたい事があるんだ」
「なんっすか?」
「君が全く知らない子供が君の身近で危機に瀕してる、けれどその子を助けると君の命も保証出来ない――そんな状況にいる。決断を待つ時間はほんの僅か、サンならどうする?」
「…、えっと」
”もしも”を想定した質問はこれが初めてだった。問うアークの表情が先程までと変わらない様子に安堵して、サンは言われた状況を想像してみる事にした。
「助けると思います」
じっくりと内容を吟味した訳じゃない。けれど気が付けば口から言葉がこぼれていた。不思議と後悔はしていない、頭の中で咄嗟に浮かんだ選択が一番自分らしいと思えたからだ。
「危険は怖くないの?」
「怖くない訳じゃないですよ、でもいざ動いてる時ってがむしゃらだろうからそこまで余裕ないんじゃないかなと思うんです」
相手が子供だとか大人だとか、サンにとっては大きな差ではない。自分よりも大きなプラードを助けている現状から、その事実を知る仲間達はサンの答えに納得していた。
「もしかしたら死ぬかもしれなくても、後悔とかしない?」
死という言葉にサンは身体が少し強張る感覚を覚えた。それでも不思議と怖くはない、何故だか明確な言葉は思いつかないが自信はあった。
サンは強く頷いた。
「後悔しないと思います、自分がやろうとして行動した事なら」
「そっか…サンはすごい人なんだね」
アークはサンの瞳の奥にあるものを感じ取ったのか、それ以上の問い掛けをせず納得した様子だった。
真正面から褒められたサンは恐縮しきりである。仲間達の目もあり照れ臭さが抜けなかった。
「そ、そうスかね? 自分じゃよく分からないけど」
「うん、それは皆の方がよく知っているかもね」
ちら、とアークがプラード達を一瞥した。彼等の表情は三者三様ではあったが、それでもアークは気に止めない。
「答えを出しにくい質問に答えるなんてなかなか出来ないもん」
「そう、ですかね?」
「うん、そこは誇っていいと思うな。じゃあ、サタナエルも待たせてるしオレも行くね」
膝に置いていたゾルディを定位置である自分の肩に移動させたアークは椅子を引いて立ち上がった。
「リコ、席貸してくれてありがとうね」
「いいえ〜! どういたしまして、また遊びに来てね〜!」
「うん、また来れる時に来るね〜」
上機嫌に手を振るリコへアークもにこにこと手を振り返す。
「じゃあ、またね」
その言葉は最後に見回したサン達へ向けたものだった。
サタナエルもアークが動くのを確認してから、サン達に小さく会釈をする。自分が間に割って入ってきた事には少なからず申し訳ないと感じていた。本来ならアークはもう少し長居するつもりだったのではないかと、サタナエルは考える。
アークの突発的な行動には既に慣れたが、他の宿の冒険者と交流を深めに行くのは珍しい。しかもまだ知り合っていない冒険者と、だ。
サタナエル自身依頼で共に行動してから付き合いが増えるケースが多い為、ミーハーなタイプでもない幼なじみの行動がよく分からなかった。
「では邪魔をした、失礼する」
声を掛けると丁度プラードと目が合った。
サタナエルは彼がその肌や体格、雰囲気からどこかの部族ではないかと察した。
「…いつか」
おもむろにプラードが口を開く。サタナエルに気圧されていたメンバー達も、そしてサタナエル自身も驚きを隠せない。
「え?」
アークもきょとんと目を丸くさせていた。だがすぐに見守るような暖かい眼差しへと変わる。やりとりを全て見聞きする前に宿の外へ足を向かわせていた。
「いつか手合わせを頼んでもいいか?」
静かに吐き出された言葉に、何を言うのかと思っていたサタナエルは薄く笑みを返した。
「俺で良ければ、いつでも言ってくれ。――では」
ラグナスとも目が合い、サタナエルは先程よりも深めに一礼をした。先に行ったアークを追いかけ金属音がガシャンと打ち鳴る。
「……はぁ」
白泡の水妖亭全体をざわめかせたベテラン冒険者達が去り、大きく息を吐き出したのはサンだった。
彼のみならず、大半の緊張感の元はサタナエルに一因していた訳だが。
「サタナエルさん…こう凄い迫力、してましたね」
「顔を見た時のサンちゃんの顔と言ったら」
アークの時とは一転して、サタナエルを見た時のサンの顔は大きく強張っていたのは誰しもが納得出来るものだった。
「そ、そりゃびっくりもしますよ。アークさんだけでも驚きだったのに、サタナエルさんまで会えるなんて思ってもみなかったんですから。…って、キャスさんだって緊張してたじゃないですか!」
サンはサタナエルと会った事に対し、同じ緊張感を感じていたのではと考えていたのだが、キャスの不安はサタナエル以前からだった。
話でサタナエルが純粋な戦士であるとキャスは知っている分、安堵していた程だ。
「別にオレ様は緊張してねーよ!」
「ふぅん…?そうなんですか?」
「そうだよ」
言える訳がない。言うという事は自分の隠し事まで話さなければならなくなるからだ。
キャスが何よりも注意していたのはアークだった。実力の高い精霊術師であり行動の仕方に情報が少なかった為、誰よりも早く警戒したのだ。
だが30分程近くにいたものの、相手の事はよく分からなかった。側に居た丸い生き物も初めて見た上に、細かく診た訳ではないが判別も出来なかった。
見た目はサン以上に無害そうだが、不明瞭な部分が多すぎて周りがいない状態では再び会いたくない相手となった。
「それよりオレ様が驚いたのはおっさんだよ、なんだかんだで二人の事知ってたんだからさ」
「アークさんとは今日が初めてお話したんですけどね」
ラグナスは苦笑する。
「とは言えサタナエルさんとも片手で足りてしまうくらいにしかお話してないですよ。今ではすっかり名のある冒険者になって…昔を知る分私も感慨深いです」
ラグナスはサタナエルの祖父母がまだ存命していた頃、成人したかしていないかの若きサタナエルを思い出していた。
垢抜けていない真面目な好青年であった彼が剣を振りながら、冒険者になりたいんだと意志の強い眼差しで話したのを一度だけ聞いた事があった。
自分には目指す人がいる。ラグナスが何故と問いた返事がそれだった。目指す人物とは誰なのかまでは流石に聞く事が出来なかった。今思えば聞いておきたかった、そんな気もしていた。
「プラードさんのさっきのお話、実現するといいですね」
「あぁ、ありがとう」


「そういやアーク」
古竜の息吹亭への帰り道。
いやがおうでも目立つ事にも慣れてしまい、特に冷静なサタナエルが不意に口を開いた。
「なぁに、サタちゃん」
初めからそんなものを気にしていない様子のアークがいつも通りの彼のあだ名を返す。
「だからそのあだ名は…それは、まぁいいか。あの最後の質問…なんだったんだ?」
「あ〜…あの質問かぁ、気になったからしたの」
アークの返事にはサタナエルもある程度の予想がついていた。だが、初対面の相手にするような質問にも思えなかったのは事実だった。
「だからってなぁ…、!  お前まさかまた首つっこむつもりじゃないだろうな」
度々不可解な程に行動的な事をする時があったのはサタナエルも嫌というほど知っている。こうなったアークは自分一人で動いて、周囲に相談もない事もだ。
「あのね、サタナエル」
アークは静かに幼なじみの言葉を遮った。
「なんだよ」
動くつもりなら一言声を掛けろ、と言うつもりだったサタナエルもアークの雰囲気に言おうとしていた言葉を詰まらせる。
「オレにだって出来ない事があるんだよ」
「え?」
一つサタナエルに思い当たる点があった。数ヶ月前に彼の祖父が宿にやって来た時に聞かされた、アークの身に起きた異変について。
アークがまだほんの幼い頃、祖父の家へ遊びに行った日のこと。祖父がほんの目を離した隙にとある本に取り込まれた。その名は『真理の本』、どこからともな く現れては他の本の中に紛れ込み、自分を読むようにと誘う禁書の中の禁書。読んだ者は大半が狂気に襲われまともな人生を送る事も出来ずに自害するとも言わ れる。
ただ幸か不幸か堪える者が稀におり、その者には過去・現在・未来に関する全ての知識を授かるのだという。
アークは堪えてしまった者の一人なのだ。そして彼は知識のほんの一部を夢として見る事がある事をサタナエルは聞いていた。
「まさか……何か見たのか?」
「どんな内容なのかははっきりとは…覚えてないんだ、でも一つだけ確実なのが」
そこでアークは言葉を区切る。
「揺らぎない死……」
サタナエルの表情が僅かにだけ反応した。それは一瞬のことですぐに持ち直した。
「だが待て。さっきお前は具体的な例を挙げていたじゃないか」
「…それは一番多かったケースを挙げただけだよ」
「一番多かったケースって…」
アークの言い方にサタナエルは嫌な予感がした。特殊な力や鋭い勘を持っている自覚はない、それまでに体験した経験則から不穏な空気を感じ取ったのだ。
「オレね、彼の事も夢に見た事があるの。しかも何度も、でもはっきりとしたビジョンが思い出せないんだ。こんな事…ヴィックス達の時にはなかった」
毎晩のように同じ夢を見ていたアークはそれが予知夢ではないかと感じた七日目のこと。連日見るモザイクのかかった詳細不明な映像がとある人物の死に至る シーンだと気付いたものの、肝心の死ぬ相手が分からなかった。三週間目を迎えてから徐々に相手の姿が鮮明になった為である。
「状況が違うってことは分かるんだ、でも死ぬ以外の詳細は一ヶ月目になる今も分からないんだ」
「…それで、会いに行ったのか?」
神妙な顔をしたサタナエルの問いにアークは頷いた。
「うん、どうしても気になって。会ったら見る夢にも変化があるかなって希望もあるけど」
そこで大きく欠伸をしたアークは言葉を打ち切った。眠たげに目をしばたかせると更に続ける。
「…最近よく眠った気がしないしさ、多分あの夢を見るようになってからじゃないかな」
「おい…それでなくても負担がかかってるんだろう?」
「うん。一応オレだって寝たいんだよ? でもただ目をつむってただけって感じなんだ」
依頼を受け目的地へ行く道中、野営をすることがある。その時見張りをしている状態と似ているなとサタナエルは感じた。
目を閉じていたとしても、身体は休んでいない。意識は残っている。それが日常の睡眠にも起こっているとなれば負担は相当のものだろう。
「ハッキリとしてないものをどうしろって言うんだろうね」
「………」
自覚あっての発言なのかとサタナエルは思わず疑った。”ハッキリとさせる手段”ならばアークは既に持っているはずだからだ。
「なんでオレにそれを見せるんだろうね、何か意味があるのかな」
ぼんやりと遠くを見ながらアークはぽつりと呟いた。
その言葉を聞いたサタナエルは珍しく幼馴染が愚痴をこぼしたように感じた。それだけ参っているということなのだろう。
「なぁ、一つ聞いていいか」
「な〜に?」
「もしお前が…その死について調べたとしたら、お前自身はどうなる?」
どうにもならなかった時、アークならばやりかねない事をサタナエルは知っている。だからこそ本人の推測を聞いておきたかった。
見せられている今の状況でこの負担の量ならば、真実を掴もうとした時はどれ程のものなのかサタナエルは想像もつかなかった。
肝心のアークは問いかけを聞いてから珍しく渋い表情を崩さない。
「…うーん、きっと当分の間は意識ないかもね。調べながら身体を動かすキャパシティなんてないだろうし」
「当分って一週間とかそのくらいか?」
「まさか〜、一ヶ月単位だよ」
とても軽い口ぶりで重い言葉を聞いた気がした。サタナエル自身、アークの境遇を理解したつもりでいた。だが今の彼の答えで自分の認識の甘さに嫌でも気付かされた。
そんなサタナエルの心中を知ってか知らずか、アークは何やら考えながら指折りだす。
「うー…ん、いち、にぃ、……さん。最低三ヶ月くらいかな?」
「それは…眠る期間か」
半ば絶句しているサタナエルにアークはただ一つうんとだけ返事をした。
「長いと‥一年は越えると思う」
「‥‥。お前のお祖父さんは同じ経験してるのかな」
「どうだろう、予知夢を見たことがあるとは聞いてないなぁ」
「……そうか、どちらにせよ今度も見るようなら一度は相談した方がいいかもしれないな」
こうして相手に会ったことで何が変わったかどうかは、いざ眠ってからでなければ分からない。
ただアークはあまりに多くの最期を見てしまった。いくら人の終わりが死であったとしても、あくまで最期は一つであるはずなのに。
人の生きる道において如何なるところで様々な分岐路がある。それぞれの分岐路の先には違う最期が待っているものだ。
既に決まった道にいるはずなのにそれぞれの最期を日毎に見せられている‥、アークはそこに違和感を感じていた。
一見は何でもないような事でも、とてつもない違和感が彼にはあるような――そんな予感がしていた。
「うん、そうするよ」
今ならすぐに眠れる気がする。眠った後、あの夢の変化が見たい。珍しく夢を見たいとアークは心から思った。
会ってみて分かったが、サンはとても良い若者だった。出来ることならこれ以上死ぬシーンを見たくない。
「サタちゃん、オレ眠くなってきちゃった」
「おい、これから仕事だぞ」
目をごしごしとこするアークの意識が途切れるのは、今から十秒後。


END